ロッキーロメロが語る、中邑真輔やAJスタイルズ退団時のバックステージの反応、ロス道場時代に親友のカールアンダーソンを家に住まわせていた話など

前回の続き。今回はアンダーソンとの関係や所謂中邑ショック当時の新日本プロレスの話です。

 

中邑ショックの裏側

俺を含めた全員がここを去ることについて考えていたのは興味深いことだった。当時、俺はNXTのトレーナーとしてWWEからオファーを受けていたんだ。だが時を同じくして、シンスケ(中邑真輔)、アンダーソン、ギャローズ、AJがオフィスにその決断を伝えていた。

 

見ての通り、俺はここに残ることを選んだ。シュールだったよ、年間最大のショーを目前に、興奮して精力的になっていたはずのみんなが東京ドームでそのことを告げられて……バックステージのオーラは本当にぎこちないものだった。

でも、ちょっと悲しかったんだ。俺達は皆、この旅路はこのような形で終わりを告げるのだと心のどこかで知っていたから。少なくともその時点では、これからの団体─未来を見れる人間は誰もいなかった。

 

ありとあらゆる人間がこの離脱は俺達の首を絞めることとなると言っていた。そうは思わなかったのはただ二人、外道とタイガー服部のみだ。外道はケニーこそが次の男であることを知っていたからね(※ケニーの元々のプランはDDTから新日本へ移籍した際にバレットクラブの2代目リーダーになることだった。が、新日本がAJスタイルズの獲得に成功したために、ケニーは平からのスタートとなった)。周りはほんとみんな気が狂ったようだったけど(笑)

 

彼らは団体が衝撃を受けることも知っていたけれど、そこで止まるようなものではないことも理解していたんだ。

 

アンダーソンとの関係

でも、個人的には変な気分だった。去っていくみんなと友達だったし、特にアンダーソンとは12年来の友達だったからね。ロス道場時代には、1年間俺の家に俺の母親と一緒に住んでたこともある。

道場生活は当然無給だったし、彼は無一文で居場所がなかったから…(※アンダーソンは他にもLA道場に寝泊まりしていたり、衣食代を当時のプリンス・デヴィットや中邑真輔に出してもらっていた時代もある)。

 

プリンス・デヴィットが新日本に行った後も、彼は悲惨な暮らしを続けていた。そんな中俺は「ごめん、新日本に帰るためにメキシコに行かなきゃならないんだ」と彼に告げた。すると「じゃあ俺は一体どうしたらいいんだ…」と言うから、俺は「このまま俺の家にいなよ」って(両者笑)

 

その時、俺は日本にいる中邑に電話したんだ。俺たち三人は本当に仲が良かったから、「彼をそっちにやるわけにはいかないか?」と頼んでみた。
それでようやく、俺が去ってから三か月後にシンスケが「おい、会社が契約をくれるらしいぞ!」なんて電話を寄越したらしく、アンダーソンは泣きながら階段を降りて俺のママに報告して二人でわんわん泣いたそうだ。

後に「信じられないだろうけど、彼らが三か月契約をオファーしてきたんだ!うまくやれば一年に六か月も呼んでもらえるらしい」って電話をかけてきたよ。

 

それにしても、全くクレイジーな話だ。初めてファーグ(※デヴィットの愛称)達と会った時、彼らは俺のことを嫌っていたんだ。当時俺はブラックタイガーで、クールで、仕事があったから(笑)でも、日本から帰ってきて彼らを誘って食べたり飲んだり、少し話したら仲良くなれたよ。今じゃベストフレンズだ。

 

(CJ「知らない国で外国人同士でロードをしていると家族のように感じるよな」・「WWEの人間として最後に来日した時─その時点で既に契約は切れていて、日本が好きすぎて勝手に来たんだが─、Messengerで俺、ギャローズ、アンダーソンにロマン・レインズ、サモア・ジョーのグループを作ってたんだ。今でもそのグループでよく喋っているが、久々に彼らとも会いたいよ」)

 

正直、ジェリコとギャローズ、アンダーソンがTalk’n shop on Talk Is Jerichoを始めた時は辛かったよ。そもそもTalk’n shopはアンダーソンが「俺は面白いし、お前は良い相棒だ。俺たちはポッドキャストを始めるべきだ」と言い出したことで始まった。俺は喜んで賛成したよ。
なぜなら当時はバレットクラブが有名になりだした頃で、世界中のみんなが新日本の中はどんな感じなのかと気にし始めていたからだ。

 

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